
その日、僕は都心の喫茶店でAに会っていた。店の中は薄暗く、レトロなインテリアが何となく時間が止まったような感覚を生み出していた。Aは革のソファに座り、窓の外を見つめながら、少し遠い目をしていた。彼女が持っている古ぼけたノートからは、ほのかにカビの匂いがしていた。
僕はコーヒーを一口飲みながら、彼女に話を促した。「Bさんについて、何か特別な話があるんですか?」
Aはしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと話し始める。「Bはね、実は…」彼女の声は低く、少し震えていた。「Bがね、タイの教習所でバイクの免許を取りに行ったそうなの。でも…」
店内にはジャズが流れていたが、Aの話が進むにつれて、音楽が遠のいていくように感じた。外は雨が降り始め、店の窓を叩く雨音が徐々に激しくなっていった。
女の声
「Bがね、タイの教習所でバイクの免許を取りに行ったそうなの。でも…」Aの声がさらに低くなり、店内の雰囲気が一段と重くなった。「講習は2日間に渡ったんだけど、全てタイ語で行われてて、Bは何もわからなかったんだって」
僕はAの顔を見つめ、彼女の話に引き込まれていった。窓の外の雨音は、ますます激しくなる。まるでこの話が、開いてはいけないパンドラの箱であることを強調するかのように。
Aは続けた。「2日目はね、講習と筆記試験の日だったの。Bは不安な気持ちで教習所に向かったんだって。」店内の雰囲気は重く、ジャズの音楽も遠のいていく。僕はAの話に完全に引き込まれていた。
「試験は別室で受けることになって、部屋には壁に向かって6つの机が並んでいたんだって。受験生は全員マスクをしていて、机の上のタッチスクリーンに回答する形だったの」
全員マスク?コロナ対策を徹底する教習所なのだろうか。Aの声がさらに低くなる。「インストラクターの先生が、『試験中は絶対に後ろを向いてはいけません』『試験のことは絶対に口外してはいけません』、と言ったんだって。Bはタイ語で講義を受けているから答えが全然わからなくて、ただ席に座っていたんだけど…」
Aの顔が曇る。「突然、後ろから『No.1…No.3…』という声が聞こえたんだって」
僕は驚いて聞き返した。「声が聞こえたって?一体誰が?」

Aはうなずいた。「わからないの。もしかすると、Bの幻聴だったのかもしれない。押し殺したような声だったって。Bも振り返って確認しようとしたらしいのよ。でも、先生の言葉が頭をよぎって、怖くて振り向けなかったんだって。その声に従ってボタンを押していったんだけど、その時の声はまるで直接耳元で囁かれるように聞こえたって」
僕は背筋に寒気を感じた。「それで、Bはどうなったの?」
Aは少し顔をしかめながら言った。「最終的に、Bは合格点の48点を獲得したんだって。まるでその声が彼を合格へと導いたかのようにね」
一体どういうことなのだろう。僕は霊を信じるようなタイプの人間ではない。しかし、教室にいたB、他の生徒、先生以外に人がいないのであれば、誰がBに答えを吹き込んだのだろう。芳醇なコーヒーの香りが今は感じられない。
「この話には続きがあって」
Aは僕の顔をまじまじと見ている。
「試験が終わった後、Bは教習所で仲良くなったタイ人のおばさんに話しかけられたんだって。別室で受けてたけど試験に落ちたって。また受け直す必要があるって言ったそうなのよ」
つまり、タイ人の彼女には声が聞こえていなかったということだ。外国人であるBにだけ囁くような声。
「それで、おばさんが試験結果を聞いてきたらしいの。Bはこう答えたんだって。『もちろん合格さ。とても簡単だったよ』」